緑の丘

 一つの詩的な情景がある。私は坂に立っている。坂といっても、坂道ではない。見わたすかぎり緑の丘だ。見仰げば、青い空、白い雲。ふもとから吹く涼しい風が、お日さまと土のにおいを巻きあげていく。

 丘はあまりに広大で、茫洋として果ても見えない。(それなのに、何故か私はその丘が無限に広がっていることを知っている。)向こうの稜までたどり着くと、いつもまた、その向こうにべつの稜が横たわっているのだ。稜線の上には空がある。私は空にわかってほしい。どうしようもなく、わかってほしい。

 私はある場所を歩きながらどこかかなしい気分になる。またべつの場所へ登っていくと今度はうれしい気分になる。だからこうすることにした。私の歩いたこの丘の、かなしいようなところを「かなしい」と呼び、うれしいようなところを「うれしい」と呼ぶのだ。そうして私はこの「うれしい」から、あの「かなしい」にまで向かって、えいえいおーと、また一息に坂を駆けくだった。けれど、私はわかってほしい。どこまでも深くわかってほしい。あの「うれしい」から、この「かなしい」にまで駆けてきたあいだ、私がどんな思いでいたものか。まだ、どうしようもなく、わかってほしかった。

 風が吹き、草が揺れて、私がさっき「うれしい」と見とめたあたりは、もうどこなのか曖昧になる。雲が流れ、日が陰って、ここもどこだか曖昧になる。ふりかえったが、丘は広大な緑の丘だ。歩けども。歩けども。丘はどこまでも稜をかさねて、けっして果てを予感させない。私は、はたと気づいてしまう。あるのは、ただ、この勾配だけだ。空はすいこむように深く、青く、私は途方もなく立ち尽くす。私はわかってほしいのに。私はどこにいるのだか、空にわかってもらえるような気がたしかに持てず、ずっとこの坂に立っている。

 もしも、あの、空と丘とが交わるところまで行けたなら。私は空の手をとって、二人一緒に歩いてゆきたい。私と空はならんで歩く。この勾配を二人で歩く。それはきっと、この世界でいっとうすばらしい幸せにちがいないのだ。けれども、それは逃げ水である。あすこに見える天際は、まさしく神話の境界である。あれより縁へは行かれない。けっしてどうにも届かない。だけども、だから、あの山のは、ここより見えるあの稜の、なんと緑でせつないことか! これだから、人は誰もが恋しいのだ。この恋しさが憧れである。この恋しさが恋愛である。私はどうにも鳥になりたい。つばさのないこの躰がもどかしい。私はこの丘をはなれ、いつかあの空に会いにいきたい。私は飛びたちたい。それだからいま助走するのだ。ああ、いいや、だが、はたして。どうだろう。そのときにまだ私はこの勾配を覚えておれるだろうか。私はどうにもわかってほしい。こんな身勝手な私は、やはりこの坂にひとりぼっちで立っているよりしかたがないのか。

 私の空はあんまし遠い。いやになるほど、あまりに遠い。

 けれどもだから歩いてゆこう。私は坂にしゃんと立とう。丘はあまりに広大で、茫洋として果ても見えない。けれどもだから歩いてゆける。稜線の上には空がある。いつか、あの稜の向こうから、丘と空とは一つにとけて、(あるいはまた、私が空にとけるように、)まったくうつくしい別天地がひらけていないともかぎらないのだ。

 この丘の一面の緑は、きっと、そんな希望の色である。

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